2020-02-13 第201回国会 衆議院 議院運営委員会 第6号
次に、議長から、永年在職議員として表彰されました故元議員村岡兼造先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、議長が弔詞を朗読されます。 次に、国家公務員等任命につき同意を求めるの件についてお諮りいたします。採決は三回になりますが、順序は印刷物のとおりでございます。
次に、議長から、永年在職議員として表彰されました故元議員村岡兼造先生に対する弔詞贈呈の報告がございまして、議長が弔詞を朗読されます。 次に、国家公務員等任命につき同意を求めるの件についてお諮りいたします。採決は三回になりますが、順序は印刷物のとおりでございます。
そして当選をしたときには、村岡兼造先生ははるか大先輩でございまして、国対の兵隊として働いていたのでございますが、当時、ガット・ウルグアイ・ラウンドでいよいよ米のミニマムアクセスが認められるというときにおいては、私も断固反対をいたしまして、国会の前でいわば泊まり込みストライキというのを何人かで、寝袋でもってやったことがございます。そのときには、断固として守ると。
十六年前の一月十七日から私実は三週間ほどして、自社さ政権でしたんで、自民党の村岡兼造先生、谷洋一先生、そして当時の社会党の私、松本龍三人が復旧復興プロジェクトの座長になりまして、もう半年間一生懸命努力をしました。しかし、半年間実は誰からも余り褒められませんでした。そのくらい災害というのは厳しいものだというふうに思っております。
そのときに、大企業をどうしようかということが実はありまして、村岡兼造先生、谷洋一先生、そして私と、いろいろ知恵を絞って、神戸製鋼とかそごうとか、かなり傷んでおりましたので、本当は大企業は瓦れきの撤去もできない状況がありました。
十六年前の阪神・淡路のときの瓦れきのスキームは、実は、村岡兼造先生、谷洋一先生、そして私と、三人が中心になってスキームをつくりました、当時は厚生労働省でありましたけれども。
村岡兼造先生、谷洋一先生、そして私と三人で交代で、復旧復興プロジェクトの座長をしました。 一カ月たったときに、避難所の見回りでありますとか、瓦れきの処理でありますとか、そういったことはもう私のチームではほとんどなくて、復旧復興に向けて、それは小里大臣のもとにやったわけでありますけれども、六千四百三十四人亡くなられた阪神・淡路、そして三名、行方不明の方がおられました。
前に私も、十五年前の阪神・淡路のときに、御党の村岡兼造先生、谷洋一先生、そして私、三人で、実は災害復興プロジェクトの座長をやったんですけれども、そのときの思いもしっかり腹に入れていきながら、防災というもの、そして復興というものに全力をこれから挙げていきたいというふうに思っております。
○事務総長(川村良典君) 元議員二宮文造先生には、去る一月二十七日午前十時三十三分、香川県高松市の病院において逝去されました。謹んで御報告いたします。 本委員会の理事会におきましては、協議の結果、お手元にお配りしてございます案文の弔詞をささげることに決定いたした次第でございます。
こんなことをやっていたら、本当に日本はらちが明かないと思って、一計を案じて、去年の今ごろから、国会議員の先生方に働きかけまして、CIQ議員連盟というのをつくっていただいたのです、秋田の村岡兼造先生に座長になっていただいて。夏の概算要求から、国会議員の先生方の力をかりて、関係各省を呼んで概算要求の中に盛り込んでもらうというところから始めたのです。
この調査は、国際原子力機関が十一カ国七国際機関の科学者から構成される、今おっしゃいました国際諮問委員会を設置いたしまして、ちなみにこの国際諮問委員会の長は我が日本の重松逸造先生であられるわけでございますが、これを設置いたしまして、この諮問委員会の作業計画に基づきまして、合計二十五カ国約二百人に及びます専門家の参加を得て実施したものでございます。
それはあの重松逸造先生、環境庁委託調査研究班の班長のお言葉が載っていました。割に最近の九〇年五月の新聞でありますけれども、条件が二つあったようですね。私がメモでとりました。これは予防医学の大学者です。国立公衆衛生院の部長をなさったお方ですから、金沢大の教授になられてそれからABCCの理事長ですかなんかなさいましたから、これはもう大学者です。
そういうことをいろいろ思うにつけましても、一番の社会党の全方位外交、等距離外交とか、新宣言その他理念の中に出ておりましたけれども、しかしそこのところをひとつ念頭に置かれまして、また民社党の方は本当に、永末委員長とか、特に柳澤錬造先生、ついこの間予算委員会でこの点非常に熱情あふれるお話でございましたけれども、皆さんと一緒になって、税制だけでなくてこういう人道上の問題は、これは対立と同時に、私はそういう
そこで問題を次に進めますが、重松逸造先生を班長として水俣病に関する総合的調査手法の開発に関する研究が進められております。これは昭和五十五年度以降毎年五百万円以上の予算がつけられまして、今まで二千百七十七万円、五十九年度も五百四十七万円の予算が計上されていますが、伺いたいのは、この研究はいつまとまるのか。
○加藤説明員 確かに、先ほどもちょっと触れたわけですが、参議院の二宮文造先生の御質問があったときに私どもの浅井道路局長が、上半期と下半期との間ぐらいじゃなかろうかと当時お答えしたことも承知しています。
あのときには確かに船舶会社の幹部も捜査を受けたりなんかいたしましたものでございますから、こういうふうに一つの企業の利害関係と政党献金とを結びつけるように誤解されることはいかぬ、これは断ち切ろうじゃないかということで、岩田宙造先生を中心にした国民協会というものでやりまして、そうしてそれは野党の方にも、これは多くは出せませんでしたけれども、議会制民主主義育成という意味でやったというのが、これが一つの経過
いっかの委員会でも、たしか先輩の中村順造先生からもこれに類似する質問がございました。その後どういう事務処理をしたかはわかりませんが、事この青函連絡船をめぐって起きた労使双方のいさかいから発展した行動ということについては、私はあまりさして問題がないのではないかというふうに確信するのであります。第一に、先ほども触れましたけれども、対旅客との関係については全くこれは皆無でございました。
今日、諸君、自民党で大臣となり、次官となり、次官は別として、およそ大臣というものは、官僚で、秀才で、要領のいいやつで、まともな教養と見識を持った政治家、たとえばわれわれと同じく列国議会同盟会議に出席した木暮武太夫先生とか、笹森順造先生というものは、世界各国どこへ出してもりっぱな人であります。こういうりっぱな人柄というものは、野心を持たない、あとへ引っ込んでいる。
父君の林有造先生は、わが国自由民権運動の先覚者の一人として知られ、第一回帝国議会以来、衆議院議員として活躍し、再度国務大臣の重責を帯びた方であります。 君は、そのすぐれた資質を受け、長じて、高知県立第二中学校、岡山の第六高等学校を経て、大正七年京都帝国大学校学部を卒業、一時、三菱倉庫株式会社に勤務せられたのであります。
○吉岡参考人 岩田宙造先生にお願いしております。直接担当は伊達利知先生ですが、昨年御意見を伺いまして、会社といたしましても、万一代執行専のことがありましては、会社の維持上、経営上非常に支障を来しますので、弁護士といたしましてはそれに対処しようという意見が強かつたのであります。しかし私といたしましては、いろいろ寄付その他のことがございますけれども、これははつきり申し上げます。
実は私の友人の弁護士でありますが、岩田宙造先生の事務所におりまして、岩田先生にも現場を見ていただきまして、大体のいきさつの意見書をまとめて、昨年末に訴訟の手続をしようかということを弁護士の方から慫慂されました。
国立療養所多摩全世園長の林芳信先生、国立予防衛生研究所長の小林六造先生、国立療養所長島愛生園長の光田健輔先生、国立療養所熊本恵楓園長の宮崎松記先生、名古屋大学教授の久野寧先生の五名でございます。 私から簡單ではございますが、参考人の先生がたに御挨拶申上げたいと思います。本日はわざわざ遠路御参集頂きまして誠に有難う存じます。